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コンパクトな合宿免許

まるで金魚のフンだ、と笑われながら、私は自転車がスリ切れるほどペダルを踏み自動車の尻を迫ってガソリンの芳香をかぎ、なんともいえない歓喜にひたるのだった。 道路に油のこぼれている跡を発見するとそれに鼻をくっつけて匂いを心ゆくまでかぎ時間のたつのも忘れるほどであった。
そのころから私の抱いた最大の望みは自分の手で自動車をいじり、運転し、思いきりすっとばしてみたい、ということであった。 その念願が達成できるのは、いつのことか予想もつかなかったがいつかはかならずそのときがくると私は信じて疑わなかった。
その当時、父はすでに鍛冶屋のかたわら自転車屋をはじめていたので、自転車の修理はもちろん、たまには自動車のちょっとした修理も手がけるようになっていた。 そのためか父は『輪業世界』という雑誌を購読していた。
むさばく読むのが、当時の私にとってはうずくような歓びであった。 やがて私は小学校の尋常科を終えると、高等科、進んだ。
相変わらず学業のほうは苦手だった。 その高等科も、間もなく卒業というころ私が『輪業世界』に読みふけっているとうふと広告欄が目についた。

東京の「アート商会」というところで、デッチ小僧の募集広告を出していたのである。 「よし、アート商会の小僧になって自動車の勉強をしよう」と私は胸を躍らせて考えた。
アート商会というのは東京の本郷湯島にある自動車修理工場であった。 ナイルス・スミスというハイカラな名前に魅せられていた私は、「アート商会」というハイカラな名前になんとなくひかれたようであった。
そこでさっそくこの商会に弟子入りしたい希望をのべた手紙を書き送った。 間もなく、「使ってもよい」という意味の返事がとどいた。
その手紙を見せ、私ははじめて自分の希望を打ちあけ、東京、奉公に出してほしいと両親に訴えた。 母はあまく賛成してくれなかったが、父が、「まあ、お前がそれほど望んでいるなら」と許してくれた。
私は高等科を終えると直ちに父に伴われて上京することになった。 たった一つの柳行李をかついで、私は燃えるような希望をもて余す思いで浜松から汽車に乗った。
そのときの姿はいまでも目に焼きついている。 父にとっても東京は生まれてはじめての土地であった。
東京駅でおくて街、一歩出た私と父は、まず自動車の多いのに驚いてしまった。 夢にまで見ていた自動車がまるでアリのように走りまわっているのだ。
私は、 しばらくは荘然と自動車のはくガソリンの匂いを胸いっぱい吸いこんでから、 父に促されて歩き出した。 当時の私には上級学校、行く考えなど全くなかった。
というのも学業が嫌いだったからには違いはないが、好きな学科が工作と図画と唱歌ぐらいの私だったのだから、 これでは、たとえ上級学校を希望したところで、無理な話だと自覚していたからでもあった。 田舎者の父と私は、どうやら本郷湯島にある「アート商会」をさがしあて、 そこの主人榊原備三という人に会うことができた。
父は主人に私のことを依頼すると、安心して田舎、帰ってしまった。 当時の私の胸のなかには燃えるような希望のほかには何一つなく、故郷を離れ、両親と別れて暮らすことなど悲しみのタネにもならなかった。

自動車をこの手でいじることができるのだというだけで私の胸はドキドキするほどであった。 油によごれた作業衣姿を大都会の空に措いて大いに満足し、歓喜にほおを輝かして通くまで父を見送ったことを憶えている。
現実は私が空想していたものとは全くかけ離れたみじめなものであった。 あれほど憧れていた自動車にふれることさえ許されず、明けても暮れても私に与えられる仕事といえば、主人の子供を守りすることだけなのだ。
私の手に撞らされるものは、スパナでもなくハンマーでもなくすく切れた雑巾だけであった。 燃える夢を抱いて上京した 「風雲児」(?) も、これには夢破られた口惜しさを感じないではいられなかった。
「見ろよ、お前の背中にはいつも地図がかいてある」と兄弟子たちに赤ん坊のもらしたおしっこのしみあとをひやかされない日はなかった。 私は歯をくいしぼって屈辱に耐えた。
「父のところにきていた小僧たちも、いまの俺みたいに子供の守りをさせられていた」と考え、デッチ奉公とはこういった口惜しさを昧わされるものなのだt と自分を慰めるしかなかった。 だが慰められるだけで、口惜しさ情なさは少しも消えなかった。
こと志と違い、私は失望し国、帰ろうといく度行李をまとめかけたかしれない。 「俺は自動車のお守りなら寝ずにだってやってやるのだが赤ん坊はただギヤアギヤアと泣くだけじゃないかり」と紙切れに書いて、そこらに放っておくくらいが、せめてものはけ口であった。
たれ一人私の切ない願いなど取り上げてくれるものはいなかった。 考えてみれば、そのときの私をアート商会にとどまらせていたものは、やはり両親、の思いであった。

もしも、いま私が辛抱し切れないからといって故郷、帰れば両親は困惑のあまり怒るに違いないという考えであった。 物事は考えようだ。
毎日こうして自動車を眺め、その機械の組立てを兄、機械の構造をのぞくことができるだけでも、幸せではないか。 こうした日々をくりかえしているうちに、半年ほどはすぎてしまった。
とある日大雪の降ったひどく寒い日であった。 主人が私を呼びつけると、「おい、小僧、きょうは減法忙しいや、お前も手伝え。
そこの作業衣を着て」という 私は思わずとび上がりたい衝動にかられた。 待ちに待った晴れ着を着る日がとうとうやってきたのだ。
私はそこにかかっていた作業衣にとびつくとぼやく腕をとおした。 それからそっと鏡の前に立って、自分の晴れ着姿に見入った。
もちろん、兄弟子たちがさんざん着古した油のしみによごれたものではあったが、私にはほおずりしたいほどの晴れ着であった。 どう見てもダブダブの借り着といった感じはどうすることもできなかった。
「おい、何してやがんだ。 早く来て手伝わん」とどなる兄弟子の声に私ははっとわれにかえって鏡の前を離れた。

作業衣といえば、私には忘れられない思い出がもう一つある。 映画などで見かけるフランスの将校服みたいなものでところどころに金モールがついていた。
私がその妙ちくくんの作業衣を着はじめてから、まだあまく間のないころだったと憶えている。 ある日、私は主人の命令で、神田のほう、使いに出された。
ところが須田町の交叉点で信号を間違え、巡査にこっぴどく叱責を食ったことがあった。 そのため、私の帰りがまくにも遅いというので、「あの田舎者道でも間違えてウロウロしているのではなかろうか」と兄弟子がさがしにきた。
すると私が交番で叱られている く そのときのことがのちのちまでも語り草になったことは当然である。 「金モールのついた服を着た外国の軍人がお巡りさんを叱りつけているのか、と思って近づいてみたら、本田じゃないか。
全く面くらったよ。 あのときはく」というのだ。
「だいたいお前もいけねぇよ。 怒られているのに胸を張っているやつがあるかい」 私にしてみれば、とくに胸を張ってぼっていたわけではないが作業衣そのものがそんなふうにできていたのである。
日本の警察官の服には金モールなどついていないから、間違えられるのも当然かもしれなかった。

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